KEAT 2019|  2019.4.27 - 5.6  |  那珂川町小砂(こいさご)地区 石蔵

 

 

 

 

 

小砂石で出来た石蔵の中に、かつて土葬の際に使用した仏具が入っていた。

それらは役目を終え、あまりにじっと静かにそこに居たので、 

使用される道具ではなく別の何かに変容しているように思われた。

石蔵に点在するものたちは幾星霜を経て現在ここに居る木々たちである。

生まれ成長し、身を切られ、削られ、割れながら、少しずつ形を変えて今ここに辿り着いている。

形の表面に現れる年輪の複雑な紋様は、樹の生きた記録・痕跡であり、

それは手彫りであるこの蔵の壁にも僅かに現れている。

あらゆる物に、場所に、そして人にも、

今もなおそれぞれに時間は流れていることを感じさせてくれるものたちである。

 


髙山 瑞「 余白のありて 」TAKAYAMA midori Solo Exhibition2019.3.3  - 3.16galerieH

photo | 桜井ただひさ

 

 

 

線がある。やわらかな、硬質な線。 

線はうねり、浮きあがり、旋回し、沈み、組み合わせにより膨大な意味を生み出す。

そして同時にぴたりと、あるいはじわりと纏わりつくように辺りを満たすものがある。

知らない言葉は聞くことが出来ないように、観えないものは知ることが出来ない。

しかし確かにそこに“在る”と思われる。

 

 

 

 

今回の個展「 余白のありて 」では、文字通り “ 余白 ” に焦点を当てています。白い紙に一本の線を引けば、その紙の上には線が生まれます。それと同時に余白をも生み出しており、何もないまっさらな空間に一つの動作を置き加えるだけで、二つのものが生まれてしまいます。線を主とするならば、余白は真逆のもの、ないけれどもあるという状態です。

 

展示空間に点在する作品群は、文字あるいは記号を拠り所としています。古くから写され変化しつつも残されてきた言葉、その形、太さの強弱や筆の導線、輪郭、それらを土台にし、失われる線を用いることで“在る”ことと“見えなくなる”ことの境界を探っています。

 

文字を読むという行いは、一文字一文字時間の流れを区切ることであり、読めば読むほど自分の持っている時間は刻まれ、ばらばらと崩れてゆく感覚に陥ります。それは木を刻み、彫ることと類似しているように思います。樹は私たちの目に見える年輪として時間を溜め込み成長をしますが、過去の年輪は表面に見ることは出来ません。加えられるはずの線を削り取ることで、木の過去は露呈し、余白は浮き上がり姿を現します。

 

観ること観られること知られることが有であり生ならば、観えなくなることは、(イコール)無であり死であるのか。観えないもの知らないことは、だからといってそこにないとは言い切れないのではないかという事を、見つからない答えを探しながら考えています。


髙山 瑞    「 青 の 島 の 線 分 」 |第66回 東京藝術大学 卒業・修了作品展 2018.1.28 -  2.3 | 東京藝術大学 上野キャンパス

 

 

 

おう【青】

色の名称がまだ4つしかなかった頃、風葬墓にあてた洞穴に黄色い光で照らし出された死者の世界を「青」と呼んだ。その洞穴がある島を青の島(奥武島)という。

 

せんぶん【線分】

幾何学における線分は2つの点で区切られた直線の部分。 端点の間にあるどの点も含んでいる。

 

じしょうちへいめん【事象の地平面】

ブラックホールの内部にあり、それより先の情報を知ることはできない情報伝達の境界面。

 

シノニム【synonym

同意語、別名のこと。 まれに類語を含むこともある。生物学用語でもあり、一つの生物に対して異なる学名がつけられた場合その2つはシノニムであると言える。

 

ほうじょうき【方丈記】

鴨長明による鎌倉時代の随筆。無常観の文学とされ、それを生み出した時代背景や作者の人生について綴られている。

 

われわれはどこからきたのかわれわれはなにものかわれわれはどこへいくのか【D'où Venons Nous Que Sommes Nous Où Allons Nous

フランスの画家ポール・ゴーギャンの絵画。右から左へと配置されているものたちは人生の始まりから終わりを意味している。


 「 木のシンギュラリティ#2 」 | 2017.11.23 – 12.3 | 旧平櫛田中邸

 

 

 

「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。」

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

似た主題を持つ異なる平面。文字と絵画。その線は深さ、濃淡を持っている。

彫るという行為により線は欠落し、浮き上がったかたちと空間は、意味が変容し新たな記号の可能性を隠している。

一つのきっかけから少しのことを書くのに長く時間を費やした、分厚いメモ用紙のようなレリーフ。


「 KEAT2019 」栃木県那珂川町小砂にて約40日間の滞在制作  | 2017.3

 

 

 

二本の杉の立ち木を残した壁に、太陽が昇り沈むことで木々の影が映し出される。

影を映すことから始まったという絵画や彫刻の起原に思いはせながら、

その輪郭線を追いかけるようにチェーンソーを走らせ、鑿によってかたちを撫でてゆく。

樹の生まれ育った場所や環境を知ること、樹を切るということ、彫るということ。

あらゆるものの原点を見つめ、それによって現れた文様は、私達に何を連想させるだろうか。

削り出された木屑は、土の上に残したままそこにある。

いつしか枯葉と共に、小さな砂となることを願って。

 

 

 

 

小砂滞在制作40日間のある1日。

 

 

朝、手足の寒さで目が覚める。冬と春の間、暖房のない部屋は冷え切り、白い息が感じられる。テレビも無く電波も繋がりにくい生活必需品のみに囲まれたこの旧保育所の部屋では、早く眠る癖がついていたため同時に目覚めも自ずと訪れるようになっていた。凍るような冷たい水で顔を洗い、村の人が差し入れてくれた食材を調理して、暖めておいたこたつで朝食をとる。作業着に着替えたらラジオ体操をすることが日課になっていた。

 

作業場へ向かうために朝靄の中、自転車を漕いでいる。毎日おはようとあいさつを交わす住民になぜこのように美しい靄がでているのかと聞けば、地面で凍った霜が溶けて蒸気になっているのだと教えてくれた。村の数少ない子どもは自転車で長い急な坂を下って学校へ向かい、そこを私は重たい自転車を押して登って行く。先ほどまであんなにも冷えきっていた体はいつの間にか熱くなっている。

 

作業中、鑿と木槌のはじく音が辺りにこだまして、この音はどこまで届いているのかを想像してみた。ここには都会のような喧騒は一切ない。そのかわりに鳥の声や葉音が聴こえ、自然は常に騒がしいことに気づく。一人だと思っていたけれど、きっと土の下にはたくさんの生き物がいるのだから都会よりも寂しくないものだな、と思う。木漏れ日が当たれば暖かく風が吹けば寒い、そんな当たり前のことに一喜一憂した。雨が降れば休めるのにと少し弱気になり手を休めるが、村の人が15時になればきっと温かい飲み物とお菓子を届けてくれると少し期待し、それまでまだ頑張れると自分自身を励ます。

 

日が傾き始め、気づけば製作中の立ち木のレリーフを夕日がオレンジ色に染めていた。道具をしまって坂を下り、今日も無事作業が終わったことにほっとする。温泉に連れて行ってもらい、夕飯はうちでどうぞとお呼ばれして、お料理お米のおいしさに感動し、小砂の人々の温かさに甘えてしまうことが申し訳なく思う反面、とても安心する。

 

眠る前のひととき、今にも閉じそうな重い瞼を持ち上げて、今日あったこと、出会った人を想い起こしながら紙に記録をしていく。小砂の夜は黒く静かで、蛇口から落ちる水滴の音だけが聴こえる。疲労感と幸福感の中、布団に入った。手の痛みを噛みしめながら、明日も晴れるのだろうかと眠りにつく。


「 木のシンギュラリティ 」 | 2016.11.18 - 11.27 | 旧平櫛田中邸

 

 

 

分厚い面から始まった。

木の表面である45㎝の起伏から年輪の中心に向かって切り込み、

その結果、面は輪となり初めとは異なった円状の中心点が生まれる。

永遠に無限に点は連なり円環構造を生み出すかと思われたがそうはならず、

穴の上下は繋がらなかった。

事象の地平面が穴に現れたのだろうか。


 「 平成27年度 卒業・修了制作展 」| 2016.1.15 – 1.18 | 武蔵野美術大学 鷹の台キャンパス

 

 

 

樹という一つの生命であったモノに、中心的な線を探る行為を与えることで、かたちは分断され新たなかたちが生まれる。

年輪の終端は外へ離れてゆくが現在の空間は中心へと近づき、それは過去を学ぶこと、生命進化の過程に似ていると感じた。

いつの間にか中心を通り越し深く彫り込まれた場所だけは私念であり、

その事により内側に反転するものを持つという点で原始の魚、人間、植物、地球の構造を持つ一つの世界のように考えたが、

私達はまだ中心を見つけられない。