2019

個展「 余白のありて 」|TAKAYAMA midori Solo Exhibition|2019.3.3-3.16|galerieH

TAKAYAMA midori Solo Exhibition|yohakunoarite|galerieH

photo | 桜井ただひさ   

線がある。やわらかな、硬質な線。 線はうねり、浮きあがり、旋回し、沈み、組み合わせにより膨大な意味を生み出す。そして同時にぴたりと、あるいはじわりと纏わりつくように辺りを満たすものがある。知らない言葉は聞くことが出来ないように、観えないものは知ることが出来ない。しかし確かにそこに“在る”と思われる。


 今回の個展「 余白のありて 」では、文字通り “ 余白 ” に焦点を当てています。白い紙に一本の線を引けば、その紙の上には線が生まれます。それと同時に余白をも生み出しており、何もないまっさらな空間に一つの動作を置き加えるだけで、二つのものが生まれてしまいます。線を主とするならば、余白は真逆のもの、ないけれどもあるという状態です。

 

展示空間に点在する作品群は、文字あるいは記号を拠り所としています。古くから写され変化しつつも残されてきた言葉、その形、太さの強弱や筆の導線、輪郭、それらを土台にし、失われる線を用いることで“在る”ことと“見えなくなる”ことの境界を探っています。

 

文字を読むという行いは、一文字一文字時間の流れを区切ることであり、読めば読むほど自分の持っている時間は刻まれ、ばらばらと崩れてゆく感覚に陥ります。それは木を刻み、彫ることと類似しているように思います。樹は私たちの目に見える年輪として時間を溜め込み成長をしますが、過去の年輪は表面に見ることは出来ません。加えられるはずの線を削り取ることで、木の過去は露呈し、余白は浮き上がり姿を現します。

 

 観ること観られること知られることが有であり生ならば、観えなくなることは無であり死であるのか。観えないもの知らないことは、だからといってそこにないとは言い切れないのではないかという事を、見つからない答えを探しながら考えています。



「 KEAT2019 」|2019.4.27-5.6|栃木県那珂川町小砂 石蔵

泉・根の国

2019

小砂石で出来た石蔵の中に、かつて土葬の際に使用した仏具が入っていた。それらは役目を終え、あまりにじっと静かにそこに居たので、 使用される道具ではなく別の何かに変容しているように思われた。石蔵に点在するものたちは幾星霜を経て現在ここに居る木々たちである。生まれ成長し、身を切られ、削られ、割れながら、少しずつ形を変えて今ここに辿り着いている。形の表面に現れる年輪の複雑な紋様は、樹の生きた記録・痕跡であり、それは手彫りであるこの蔵の壁にも僅かに現れている。あらゆる物に、場所に、そして人にも、今もなおそれぞれに時間は流れていることを感じさせてくれるものたちである。

栃木県那珂川町小砂地区で二年に一度行われている

環境芸術祭「KEAT」(キート)のアーティストインレジデンスに参加。

KEATは、「日本で最も美しい村・小砂(こいさご)」の里山を美術館に見立て

里山とアートの関係性を提示するアートプロジェクトである。

 

作業と展示をする場所を探すために小砂地区を周っていると

今は使われていない石蔵があり、そこには使用していない農機具や

イベントごとに使われる簡易かまどなどがあった。

それらと一緒に、過去に使用されていた土葬用の仏具が閉ざされた棚の中に入っていた。

木箱の中には和紙に墨で書かれた土葬の記録、器、太鼓など、造られてから

時間が経過したものたちが、久しぶりに叩き起こされたようだった。

それらがとても印象に残り、仏具と石蔵を軸にコンセプトをつくることに決めた。

 

作品には小砂地区の杉の間伐材を使用している。

床に点在する作品は、逆木の状態にして彫り、その向きで置いてある。

通常建築などの柱などに使われる木材の向きは、樹の立っている方向と同様に

使用されている。逆さまに使用することは縁起が悪いとされているためである。

強度の問題もあると思うが、日本の仏教で故人を供養するために墓地で用いられる

卒塔婆が逆木にして作られているのも要因の一つではないかと住民が教えてくれた。

壺の形をしているが、そこは抜けて筒状になっており墓の構造に近づけた。

 

それとは対照的に、仏具の入っていた棚の上段に置いてある一つは

正常の向きで彫られており、穴は空いていない。

滞在製作中には小砂にある示現神社で行われた例大祭に持って行き、酒を入れて振る舞った。

 

一つの空間に石蔵の壁の彫跡、使用されてから時間の経った仏具たち、

作品の樹の年輪や彫跡を重ね、生と死、天と地、陰と陽を提示した。